「今」から始めればいいじゃない

趣味物書きによる「表現」に関するあれこれ

たまごが先かにわとりが先か

おひさしぶりです。

最近サボり気味で申し訳ない。

 

どうもネタにつまっているのと、うまく文章にまとまってくれない一週間でございました。

 

ので、ちょっと企画(?)をば。

 

なんのことはない。

 

 

sakuraco11.hatenablog.com

 

この記事でも紹介しましたが、最近やってる「形容詞から導くキーワード」を発表しようかなという企画です。

 

 

 

そんなわけで今日のキーワードは

 

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「卵とにわとり」

 

 

卵か先か、にわとりが先か

卵単体やにわとり単体なら食べ物しか浮かばない私ですが、「卵とにわとり」となるといわゆる「どちらが先か論」の方を思い浮かべます。

始まりはどっちなのだろうかという、来し方を辿る果てしない旅路。

ロマンでもあり、苦行でもある。

宇宙の始まりは揺らぎからインフレーションだったそうだけれども、さてそれは果たしてにわとりだったのか卵だったのか。

そんなことに想いを馳せると、その壮大さと無知に恐れおののきながら、新たなインスピレーションを得られるような気分がします。

 

さて、卵が先か、にわとりが先かというのは、創作の場においてもよく起こり得るような気がします。

自分の中に湧いたインスピレーションは、しかしどこかで確かに先人の何かを受け継ぎながら、自分の中だけに起こった化学変化の果てに生まれたもの。

それは卵だったのか。

それともにわとりだったのか。

先人たちの教えは卵だったのか、それとも今に至る私を生み出したにわとりだったのか。

あるいはこの先のインスピレーションにつながる卵なのか、それともこれからを生み出すにわとりなのか。

 

さて。

さて。

なんだか興味深いお話です。

 

 

ウィキを見ると「卵とにわとり」に関するジレンマを解く試みというのは色々な分野で行われているようですね。

 

鶏が先か、卵が先か - Wikipedia

 

頭のいい学者さんたちのおっしゃることはなかなか飲み込みにくくはありますが、個人的には始まりなんてないという循環時間論に惹かれるものがありました。

 

時間が永遠に繰り返されるとするならば、その永遠性において「最初」は存在せず、創造もない。

ゆえに答えはこうなるだろう。

すなわち、何者も最初たりえない。循環する時間において、「最初」は存在しない。(引用 wikipediaより)

 

 

大事なのは創造性の根源を枯渇させないようにすること

旧ソ連アネクドート(共産圏ジョーク)には

 

ラジオ番組「子供の疑問に答える。」で質問があった。

「ニワトリとタマゴはどちらが先ですか?」
わずかな沈黙のあと、アナウンサーが沈んだ様子で答えた。
「昔は、どちらもありましたよ。」

(引用 共産圏関連ジョーク 1~100

 

なんていう、なんとも薄暗いジョークがあったようですが、私は意外と今でも、そしてこと創作においてもバカにできない、示唆に富んだ話のような気がします。

創造性の卵を潰さないことも大切で、それを産むにわとりを大事に育て、そして増やすことも大切。

それはインプットとアウトプットを己に課すことでもあり、同時に自分の外にある様々な想像の結果を大切にして敬意を払うことでもあると思うのです。

 

例えば過剰で理にかなわない批判や自己規制、逆に言論の自由を盾にした表現の暴力、そして盗作などはおそらく卵を潰し、にわとりを殺す行為でしょう。

 

そうした行為で生まれるはずだった素晴らしい作品、そこから生じるはずだった新たな創造性の可能性を潰すことなく、この先も自由な表現をすること、触れることを一層楽しめれば、それほどいいことはないように思います。

 

 

それにしても、親子丼食べたくなってきた(マテ) 

 

いつもご覧いただきましてありがとうございます。

今後ともよろしくお願いします(^^