「今」から始めればいいじゃない

趣味物書きによる「表現」に関するあれこれ

「まちがった」=「ただしい」とはなんぞいやという疑問

昨日ネットでニュースを見ていたら偶然見つけた記事で気になったもの。

 

 

withnews.jp

 

本日選挙、しかも今回が初18歳以上からの選挙なんでしたっけ?

だからこんな調査や記事が上がってきたみたいで、興味深く拝見しました。

さて。

政治に関することや投票行く行かないの話はここではしません。

話題にしたいのは

 

ああ、この「間違いたくない」の感覚、分かる

 

という件。

私は兎角昔から格好付けの恥をかくということを忌避する感が強い人間でしたので、「間違いたくない」という感覚自体に思わず頷いてしまいました。

 

が。

 

そもそも、間違い、つまり裏を返せば正解って何だろう?

正解という明確な基準がなければ、そもそも間違っているかどうかなんて判断できなくないか?

という当然の問いもあるわけです。

 

特に政治なんて分かりやすいんですが、その時正しいと思われたことが、後世、いや、数年後にも「あれは違った」なんてことがよく起こる訳です。

その時の情勢や価値観の相違などで容易に変わる訳ですね。

今現在の現代的な価値観と情報を持っている人間が「いやそれないでしょ」と思うことは、その時代の、その文化圏の人にとっては「正しい」ことだったりする訳です。

それが時代や地域によって揺らぐ。

教科書でさえ、学校で教わった「正しいこと」さえ、研究が進めば変わるんです。

昔「いい国作ろう鎌倉幕府」って覚えた鎌倉幕府の成立年すら、「実は違った」ということで今の教科書変わってるらしいですし。

(ちなみに、現在の教科書では1185年説を採用しているそうです。詳細は下記リンク)

 

www.juku.st

 

まあ、鎌倉幕府は余談として。

 

絶対的に、不変の正解って、実はないのではないか?

となると、「正解、ひっくり返せば間違うこと」の基準だって揺らぐ、もしくはない訳です。

 

すると、「間違えたくない」という望みは、そもそも実現が難しい

 

という話になる。

だって、それが間違っているという判断基準が正しいかどうかさえ分からないんですもの。

その基準がいつ変わってしまうかということも分からないんですもの。

 

ましてや。

このブログでテーマにしている「表現すること」に至っては、それこそ正解はない

稚拙だったり、遠回りだったり、そういうことはあったとしても、「正解」「不正解」の世界ではない訳です。

デッサンが狂ってようと面白い漫画は面白いし、無茶苦茶な当て字ばかりで奇怪な言い回しの小説だって、その世界観の作者が書けばそれがハマって面白い。

 

「正しい」なんてとても曖昧で。

「間違えたくない」という動機の選択は、とてもナンセンスなことなのではないでしょうか。

 

 

間違い上等、私はしたいからこれをするんだ!

(ただしそれで生じたことは、自分で責任持ってケツ持ちます!)

 

 

ぐらいの姿勢でちょうどいい、と私は考えています。

今のところ、まだ表現の自由言論の自由はありますから。