「今」から始めればいいじゃない

趣味物書きによる「表現」に関するあれこれ

それでも私は平凡でありたいのだろうか?

引いてしまうくらい突き抜けて何かを追求できる人に、私は惹かれます。

ある意味オタクと呼ばれる人たちは、その象徴ではないでしょうか。

私もオタクです。

しかし、彼らや「オタク」という言葉が持つ意味やある種の重みを思えば、かなりライトなオタクであると自覚しています。

私にとって「オタク」と言うのは、ある種突き抜けた、極めた、あるいは広範な…そういったイメージがあるのです。

そうして突き抜けられる人を尊敬しながら、その沼にどっぷり浸かることをどこかためらう自分を自覚して、その中途半端さを恥じている。

だから「ライトなオタク」と自称しています。

 

オタクなくせにオタクになることへのためらいは、観察していると突出することへのためらいであり恐れで、同時に平凡を装う悪あがきでもあるように思います。

私は世間一般の平凡に擬態し、馴染もうと必死になっている。

その滑稽さを苦笑いしながら俯瞰して見ているようです。

 

私は特別でありたい、と考える一方で極めて普通でありたい、平凡でありたいと言う二律背反を抱いてこれまできたように思います。

特別で、素晴らしいものだと認められたい。

その一方で尖ることを恐ろしく思い、「みんなと同じでありたい」と願う。

羨望されたいと思いながら、その一方で同調への憧れと圧力があって、私は子供の頃から現在に至るまで、その間でせめぎあって、割とトンチンカンなことをしてきた自覚があります。

そう、今でも割とトンチンカンです。

そしてそれを恥じる自分がいて、どうしてもっとスマートにできないのだと、頑張らないと合わせられないのだろうと、賢く生きられないのだろうといつも思っています。

その一方で、やはり突出した人、尖った人、特別な人に憧れる自分がいる。

好きなものや得意なもの、のめり込むものに追求したり、何かを積み重ねて華々しい成果を挙げる人にどうしたって惹かれます。

そういう人というのは、何かが非凡です。

非凡ということは、尖っているということです。

普通ではない。

平凡でも、埋没もしていない。

だから目立って、刺さって、惹かれる。

私は自分もそうありたいと思いながら、同時にどうしようもなく、無性に恐れます。

 

 

凡庸さは恥である

 

とは、齋藤孝先生が著作で述べていた言葉です。

彼は、文章を書くことにおいて、特に誰かに読んでもらう文章を書くことにおいて、一般論で締めくくるような凡庸さは恥だという趣旨でこの言葉を繰り返し使っていました。

もちろん、文章を書く、という事において参考になり、かつ勇気を与えられた気になりましたが、それ以上に単純なこの言葉に出会った私はどきりとしました。

特別になりたいと思いながら、同時に平凡、無難に逃げようとする自分を痛烈に打つ一言。

平凡、というのはある種の「楽」です。

波風が立たない。

打たれない。

叩かれない。

炎上しない。

普通であることや大きな欠点なく、無難であること、世間一般、平均であることは、恥をかくリスクも低い。

それを両断されたような気持ちになったのが、先の言葉でした。

 

凡庸であること。

つまり、周囲に合わせて自らの意思を表現できないことは恥である。

そう言い切られてはそうであるように思えてなりません。

 

もし、凡庸であることが恥であるならば、私は恥をかいて凡庸でありたいとは思わない。

そもそも、突出した、特別な何かでありたいと言う願いを持ち続けており、それを実行した時の逆風や恥を恐れて動けずにいたわけで、そのことが恥であるならば、リスクがあろうとも凡庸から飛び出ることに何のデメリットがあるだろうか。

 

凡庸から抜け出た時に、凡庸であっては得られないものを手に入れられる。

 

それを私は手に入れたいと思うし、そのために書きたいと思う。