「今」から始めればいいじゃない

趣味物書きによる色々(迷走中)

その道の命と必然はあるか

すべての道はローマに通ず

 

何らかの形で誰もが一度は聞いたことのある格言かと思いますが、どうやらそれはリアルだったという調査があるようです。

 

wired.jp

 

「すべての道が、本当に、あのイタリアの首都に続いているのか?」という何世紀も前から続く疑問に答えようとした。

その答えを見つけるために、3人はいくつかの数値計算から始めた。まず、ヨーロッパ全体の画像上に2,650万3,452平方kmのグリッドを重ねて、48万6,713個のセルに分割した。各セルは、そのセル内から始まってローマで終わる旅の出発点を表していた。

次に、「オープンストリートマップ」(OpenStreetMap)の幹線道路データと、経路ルーティング・エンジン「GraphHopper」を使って、48万6,713箇所の出発点とイタリアのローマとの間を結ぶ、最も早い経路を計算するアルゴリズムを作成した。

(引用:ほんとうに「すべての道はローマに通」じていた:データが明らかに) 

 

技術的な進歩があってのことですが、実際にできてしまうことがまず驚きです。

 

ヨーロッパの血管

実際出来上がったデータが上記URLで閲覧できますが、非常に美しいです。

ローマから各方面に伸びる大きな道路、そこから枝分かれして細分化されていく道の全体はまるで地中に広く伸びる植物の根っこや心臓から体の末端に伸びていく血管のようだとも感じました。

まるでヨーロッパの血管。

(実際道は脈に例えられることもあるのであながち血管は間違いないかもしれません。)

ローマ帝国が繁栄していた時代はざっくり言って2000年くらい前。

共和政ローマが云々とか、西ローマ滅亡は476年だとかビザンツ滅亡は更に千四百五十年くらい後だとか、まあその辺は割愛します)

どれだけローマの支配領域と影響力が偉大なものだったかとか、二千年ほど前の人がこの筋を移動し繁栄を謳歌していたのかと思うとワクワクするものがあります。

そしてこの道筋に意図というか意思というか、命のようなものと必然を感じずにはいられないと思うのです。

 

道の必然

道というのは必然があって作られたものです。

戦争最前線への兵士や物資を迅速に運ぶ為であったり、作物や税を安全に運ぶ為であったり。

その道の伸ばし方もまた地形や状況に即したものでしょう。

他にも近道は作れたはずなのに現存する道の形が採用されたのは何らか必然があるからなのだと思います。

(尤もローマの道は地理環境が不利でもできる限り直線に道を伸ばしたそうです。建築技術恐るべし)

 そう言った人の技術と財源と地理的環境との巡り合わせによって作られた道には何だか命脈のようなものを感じずにはいられません。

 

その道に命と必然はあるか

さて、創作にあたって現実世界の作品であればともかく何らか新たな世界を作り上げたときに、国やキャラクターだけでなく道という要素を考えるとまたグッと面白い世界になるかもしれないなと思いました。

 

その道はどこからどこへと通じているのか。

その道はどういう必然で作られたのか。

どうしてそのキャラクターはその道をいくのか。

 

それだけで作った世界の精彩がグッと鮮やかになるのではないか…そんなことをローマの道から思った次第です。

 

それにしても西洋人にとては本当にローマって特別なのね。

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冴え冴えと冷たい朝にふと春の気配が咲いた気がした。

ほの甘い匂いを視線で辿れば、そっと蕾を開いた梅が一輪。

この奥ゆかしい香りは確かに春めかしい。

冷たさの中に見つけた春を遠い昔の王朝人も愛したのだろうと思うと、冬の終わりに人が思うことは千年経っても変わらないのだと心が緩んだ。

電車の音はこれからどんどん変わるかもしれない話

電車。

現代日本人にとって車と肩を並べる足である。

私の住まいはほどほどに田舎で自動車がなければ不便なところに住んでいるのだけれども、駅まで徒歩十五分ほどなので、前職まではもっぱら通勤時の足は電車を使っていた。

 

さて、創作にあたって電車を表現する時、あなたはどう表現をするだろうか。

 

その表現が絵なのか文章なのかによって手法は異なるだろうけれども、車窓から見える景色、音や揺れ、あるいは人の混み具合なんかで都心のラッシュから田舎ののどかな単線まで表現できることだろう。

(余談ではあるけれどもガラスの仮面でマヤが電車とバスと乗車している姿を演じ分けたあの描写はものすごく印象に残っている)

 

私はガタン、ゴトン、という音と揺れがいかにも電車らしく描写しやすいように思う。

そこではたと思ったのは、「あのガタン、ゴトン、という音って何?」ということだ。

レールの上を電車が走る音とは承知だが、深く考えたことも調べたこともない。

ということで改めて調べてみた。

 

電車のあの「ガタン、ゴトン」という音はジョイント音と呼称されています。

その名の通りレールの継ぎ目を電車の車輪が通過する時に発生するもの。

ちなみにレールは一本25m、これが定尺レールと呼ばれるもので、電車1両より少しだけ長いんだそう。

そのためあの電車の「ガタン、ゴトン」という音はいつもするそうです。

尚レールトレールの継ぎ目は気温によるレールの伸び縮みを考慮して隙間が開けられていて、その隙間が夏は狭く冬は広がるため実は聞こえ方も違うそうです。

そう言えば冬より夏の方が音を気にしないような気がするのは…夏は頭が茹だってるせいかな?

 

ところで昨今はレールの継ぎ目の方法を変えたり、ロングレールという一本200m以上のレールが登場したことによってあの「ガタン、ゴトン」という音と揺れが減ってきているそうです。

 

ということは、今後電車の描写で「ガタン、ゴトン」を出しすぎるとひょっとしたら描写としてリアルとの差異が出てくることになるかもしれないなと思いました。

今後ロングレールがどれくらいの規模と速さで全国展開されるだろうかということはありますが、都心と地方、大手と私鉄ローカル線などでレールの音や揺れの個性出てくるのかも…?

と思うと、身近で使う電車から遠出した旅先の電車の音や揺れも観察すると描写に深みを与えてくれるかもしれないなと思いました。

 

【参考】

news.mynavi.jp

ja.wikipedia.org

【資料】学園もの・部活ものに参考になるかもしれない資料

創作に当たって学園もの、部活ものをテーマにするにあたってちょっとした資料になるかもしれない中学・高校生の運動部人口の統計とランキングがあったので紹介します。

 

sports.pasona.co.jp

こちらのサイトは運動部人口ランキングと競技人気の変遷についても記載があるので興味深いです。

この十年でぐっと知名度と人気が上がった競技、反対に、もしくは相対的に人気が下がった競技の影響も垣間見れそうです。

2020年のオリンピックでまた変わってくるのでしょうか。

 

上記のランキングの元になった統計はこちらにあります。

【高校】

www.zen-koutairen.com

 

 ※野球は別みたいです。

www.jhbf.or.jp

www.jhbf.or.jp

 

njpa.sakura.ne.jp

 

中学から高校のデータで競技人口の増減も見て考察すると色々発見がありそうだなと思いました。

 

創作の奥行きになったらいいなぁ…

 

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太陽が まるで色と温度を奪いながら空の向こうに蕩け落ちていくようだった。

世界が色褪せていき、カサカサと音を立てて乾いていく。

あの木を彩る色あざやかさはつい昨日のことのようだと思ったのに。

 

温もりと彩りは、まだ遠い。

リセット

こんにちは、お久しぶりです。

自分自身で書きながら方向性迷子になって放置しておりました。

ご覧いただいていたユーザー・フォロワーの皆様申し訳ありませんでした。

 

目的と方向性を改めて見直そうと思い、これまでの記事のほとんどをひとまず非公開に下げました。

タイトルも変えます。

 

ずっと気力が湧かないまま今年も終わりに差し迫り、ようやく動き出そうという上向きな気持ちになりました。

この辺りもまとまったら文章にできたらいいなと思っております。

 

これからもよろしくお願いします。

 

ひとまずご挨拶まで。

 

sakuraco

「今」さらはじめてなんになる?

「今」から始めればいい

 

というのは、数日前に私の脳裏にポンとおりてきた言葉でもあり、戒めでもある。

 

私は結構腰が重い。

思いつきはするのだけれども、その思いつきを実行するまでにあーだこーだと悩む。

と言うよりも、悩んでいるのはポーズであって、ただ先送りしているに過ぎない。

そうして一週間経ち、一ヶ月経ち、そうこうしているうちに秋を迎えてハッとする。

「あ、もう月末(あるいは年末)になってしまった」と言うことに気付いた時に、いつも「あの時からやっていればなんらか積み上がって形になっただろうに」と言う後悔と落胆。

その間、何かをして残した記憶も記録もなく、ただただ時間を浪費してしまったことと、そんな怠惰な自分に対する感情は、渋くて苦くて、なんとも直視し難いものがある。

 

そして過去、何かを始めて続かなかった記憶が頭を過ぎる。

現状に息苦しさを感じて変わりたいと思いながら、何もせずに手を拱いて、怠惰に昨日と同じ日を重ねようとする。

 

それがしんどい、と心底思う。

 

振り返って過去を見て、「何もしなかった」と言うえも言えぬ後悔と落胆は、警告でもあると思う。

一週間後、一ヶ月後、半年後、一年後の自分が振り返った時にも同じことを思うのではないだろうか。

今始めれば、その時の自分は同じことを思わなくて済むと言う警告。

 

だから「今」から始めればいい、と私は思う。

気付いた時、我慢できなくなったその時から始めればいい。

その選択が、未来を変え、そのうち自分の中の過去の意味付けさえ変える。

いつだって、私は変わっていいのだ。