「今」から始めればいいじゃない

趣味物書きによる「表現」に関するあれこれ

明けましておめでとうございます

タイトルどおりですが、改めまして明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願いします。

 

皆様はどんなお正月を迎えられましたでしょうか。

 

お正月ということで日も高いうちからご馳走にお酒に贅沢し、

お腹いっぱいのへべれけになりました。

個人的に酒のつまみに仕込んでいた鶏ハムが初挑戦ながらうまくできて嬉しかったです。

ささやかなことでも何かうまくいくとそれだけで幸先が良いような気分になります。

 

さて、新聞に乗っていた今年の占いによると慎んで行動して吉とのこと。

身を慎みつつも、一つ一つ行動を積み重ね、2018年を振り返った時に「良い年だった!」と思える一年にして参りたいと思います。

 

うん、その一つ一つを積み重ねることが苦手なんですがね。

2017年おわり

何やかんや今年最後の日になってしまいました。

年の瀬ですね。

皆様今年どのような一年でしたでしょうか。

 

私は今年10月にこのブログを開始しましたが、ブログの更新といい、私生活といい、仕事といい色々やり残しが多い一年でした。

しかしながら、振り返ればやり遂げたこと、得たものもある一年。

生きていれば「何事もない」ことはないのだなぁとしみじみ感じます。

 

明日からまた新しい一年が始まります。

これを節目に、改めて、やりたいこと、なすべきことを一つ一つ形にして生きたいと思います。

 

今年、当ブログをご覧くださいました皆様、ありがとうございました。

これからもよろしくお願いします。

良いお年をお迎え下さい。

「小春日和」移ろう意味とゆらぎ

今日は穏やかな初冬の1日でした。

風もなく、穏やかな日光がぽかぽかと部屋を温めて、夏の間はあれほど憎らしく思った日の温度が心地よくて、幸せ。

 

そんな今日のキーワードは

 

 

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小春日和

 

 

果たして「小春日和」が名詞なのかと若干悩んだのは内緒ですw

 

 

小春日和とは晩秋から初冬にかけての穏やかで暖かな晴天のこと。

小春とは旧暦10月、現在の11月から12月のことを指すそうです。

まさに今日のような日のことを表す言葉ですね。

海外では「老婦人の夏」ともいうようですが、これもまたなんとも優雅でゆったりとした気持ちにさせられる言葉です。

 

さて、「小春」についての定義は上記の通りなのですが、あなたは「小春」っていつのことかご存知でしたか?

 

かくいう私はきちんと定義を知るまで「小春」とは冬の終わり、春先の、春めいた時期のことだと思っていました。

実際同じように思っていらっしゃる方は多いようで…

 

文化庁が発表した平成26年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味とされる「初冬の頃の、穏やかで暖かな天気」で使う人が51.7パーセント、本来の意味ではない「春先の頃の、穏やかで暖かな天気」で使う人が41.7パーセントという結果が出ている。

(引用 デジタル大辞泉

 

4割の方が本来とは違う意味で認識しているそうです。

言葉というのは揺らぐもので、時代の変遷によって本来から意味が変わっていくものがたくさんあります。

「小春」も、ひょっとしたらそのうち「晩秋から初冬の」ではなく「春先の頃の」穏やかな天気…という意味を持つようになるかもしれませんね。

 

風のない穏やかな、ともすれば何事もなさそうな日差しに、不変な、移ろわないものはないのだということに思いを馳せた1日でした。

 

「明滅」

昨日、今日と実は東京にお出かけしておりました。

完全に母のお供であり案内役ではありましたが、久しぶりの東京、楽しかったです。

多分一年半ぶり。

そして東京駅を使うのも久しぶりで、駅構内の充実ぶりに恐れおののく。

東京駅で物欲ががががが…

 

さて、今日のキーワードは…

 

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明滅

 

明るく輝いては、ふと消える、その繰り返しの瞬き。

「星が瞬く」と言いますが、昔から星は明滅するものなんでしょう。

そして今や地上の星とも言えるイルミネーションもまた、キラキラ絵を花を描きながら明滅します。

どちらもキンと冷える冬の夜を鮮やかに彩るものです。

 

その明滅は、何をもたらすのか。

何を暗示しているのか。

 

そこに天啓を見出すのも、必然を導くのも、自分次第なのだろうと思います。

 

だからこそ、その明滅に思いを馳せながら、ゆく年を振り返り来る年を迎える準備を進めたいと思います。

 

 

枕草子

お久しぶりです。

結局11月はものすごくサボってしまいました。

今日から12月…早い!

 

サボっても何かしていても、なんやかんや時間はあっという間にすぎていくものですね。

 

 

さて。

今日のキーワードはこちら。

 

 

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枕草子

 

日本で義務教育を受けている方ならほとんどの方が知っているだろう清少納言枕草子

その最初の第一段、「春は曙、やうやう白くなりゆく山際…」の書き出しは覚えていらっしゃる方も多いのでは。

 

冬はつとめて。

つとめてとは早朝のことと習った覚えがあります。

清少納言は冬は早朝がよいと枕草子の第一段で述べています。

確かに、冬の早朝はどの季節よりも空気がぱっきりとして、痛いほどですが、それだけに清々しい気がします。

ぬっくぬくの布団から出るのは至難なんですけどね…

 

さて、いよいよ冬本番。

朝のしゃっきりとした空気を感じながら、今年のやり残しを片付けていきます。

「百物語」ネガティブな出来事をどれだけネタにできるだろうか

怖いもの、に働く想像力

ここのところホラーものの小説を読み漁っているからでしょうか。

本日出てきたキーワードはこちら。

 

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「百物語」

 

あなたは「百物語」はご存知でしょうか?

色々とルールはあるようですが、怪談を順番に百話話していくという伝統的な怪談会です。

100本のろうそくを用意して、一話話すごとに一つ消していき、最後までいくとお化けが出てくる………

the ジャパニーズホラーって感じですね。

 

怪談の持ちネタ、いくつありますか?

百物語というのはいろんなところで聞きかじってはいましたけれども、正式に「こういうものだ」と知ったのは、CLAMP先生のxxxHolicだったかなと。

 

×××HOLiC(2) (週刊少年マガジンコミックス)

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 (↑2巻の後ろの方のお話だった。)

 

 

×××HOLiC コミック 全19巻 完結セット (KCデラックス)

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それはともかく、百物語のルール自体に抱いた私の感想は「百話も話すって、ネタが尽きない?」ということでした。

集まった人が怪談を持ち寄るって言っても、100もバリエーションを持たすのは結構大変。

昔だったらもっと大変だったでしょうに、少なくとも江戸時代から続く慣習ということであれば、昔の人もそれなりに持ちネタがあったということになります。

 

大手掲示板もSNSもない時代に、どうやって仕入れてたんだろう?

え?自前やご両親ご家族ご先祖様の経験?

それはそれで怖い。

 

天国より地獄のイメージの方が、実は多種多彩だったりする

ところで、天国や極楽浄土のイメージって、割と文化圏を違えても似通ってくるんだそうです。

少し、天国や極楽浄土という単語からイメージしてみてください。

 

綺麗で花がいっぱい咲いてていい匂いで、美味しくて、綺麗で…

宗教や文化によりけりですが、美しい神様や天女や天使、妖精などいたりして…

気候も暑すぎず寒すぎず、ちょうどいい常春

痛みもなくつらいこともなく、快適な世界…

 

一方、地獄を思い浮かべてみてください。

実にバリエーション豊かです。

仏教でいう八大地獄、百三十六地獄、六万四千地獄、とか。

キリスト教の地獄もそうですし、現実でも「地獄のような」と形容できる事件や立場もさることながら、そうした不幸に立脚した物語は無数に生み出されています。

テレビ番組などもみていると、あからさまな不幸をネタにした(転落人生やそこからの逆転も含めたお涙頂戴の不幸話)が溢れている。

人間、地獄や不幸というものに対して、無限の想像力を働かせることができるようです。

 

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」

 

とは、トルストイアンナ・カレーニナに出てくる言葉ですが、それだけ人は不幸に敏感であり、また興味や注目を集めやすいということなのかもしれません。

 

その前提に立てば、その不幸に説明のつかない不思議要素を足す、もしくはそこにバイアスをかければ、誰もが怪談ネタの十や二十持てるものかもしれません。

そしてその説明のつかない不思議要素にあれこれ想像を巡らせることで…怪談は加速して成立する…。

いずれにせよ、人間の想像力って、果てしない!

 

 

ネガティブをどう楽しめるように料理できるか

人は不幸な、ネガティブなものに注視しやすい性質があるんじゃないだろうかと考えたわけですが、それが悪いわけではありません。

こと、物語を作る側としては、それは大きな創造の源泉でもあるわけです。

幸福はどれも似たようなものであれば、幸福だけの物語はどこか物足りないものになるでしょう。

面白い話とは、基本的には大きな不幸や試練、ジレンマとそこからの成長や飛躍、得るものとの落差にある。

かと言って、誰かの作品と同じではよくてオマージュ、最悪パクリの上デッドコピーでしかなくなる。

ネガティブな出来事の一つ一つは、そのバリエーションを豊かにしてくれる。

と考えると、付き合い方や捉え方が変わってくる。

 

ネガティブな出来事とどう付き合うか。

 

結局ここにたどり着くあたり、創作も人生もよく似ています。

ネガティブな要素は、食材であり、実に豊かなスパイスです。

組み合わせによっては毒にもなり、極上の料理にもなる。

それをどう見て、どう切り取って、どう味付けをして、どう盛り付けるのか。

それ次第で百の物語に化けるなら…失敗や恐怖、恥をかいた甲斐があるというもの。

己の不幸をネタとして使いまわせたら…その時にはきっと、もうその出来事は不幸ではない何かになっている。

 

そういう付き合い方もあるのではないかな、と、今日のキーワードで感じた次第。

 

 

いつもご覧くださいましてありがとうございます。

探すものではなく、気がつけば傾けて注いでいるもの

ある一つの何かに熱量を傾けることへの憧れ

今朝は何故かデイビット・ギャレットのライブ映像の夢を見たsakuracoです。

デイビット・ギャレット、カッコいいですよね。

イケメン演奏家、イイ!

音楽についても彼についてもさほど詳しくはありませんが、彼の音もライブ映像も躍動感があって、音楽の快さみたいなものが伝わってくるところが好き。

 

さて。

そんな今朝の夢に影響されて出てきたキーワードはこちら

 

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「情熱」

 

ああなるほど。

最初の形容詞から導かれたキーワードまで、ものすごくデイビット・ギャレットに引っ張られた感があります(苦笑)

彼のライブ映像とか見てると、情熱が垂れ流しな感じがしますから!

 

あなたは「情熱」に対してどんなイメージを持っている?

情熱

パッション

その言葉はよく使われる言葉であり、割と私の中で引っかかってくるキーワードでもあります。

 

あなたは「情熱」という言葉に、どんなイメージや感情を持っていますか?

 

私は常にこの言葉にいくばくかの憧れと嫉妬と劣等感を覚えている。

 

正確には、「情熱」と言うか、

「情熱を傾ける」と言う姿勢か、

あるいは、「情熱を傾けることができる人」

そして「情熱を傾けるもの・ことがある人」なんだと思いますけれども。

 

情熱、と言う言葉には爆発的なのに持続的な、内からなみなみと溢れるエネルギーの液体、みたいなイメージがあります。

まるで溶岩のような、火花を散らしながら液状になった鉄のような、それがこんこんと溢れてくる、そんな感じ。

英訳であるパッション、と書くと、もっと刹那的な、でも爆発力のあるエネルギーと言うイメージです。

そして私は、傾けて注ぎ込むものというイメージを持っている。

私にとって情熱は、重たいのに爆発力のある液体のような、そして傾けて注ぎ込むまでがセット。

 

実際「情熱」を辞書で紐解くと

 

じょう‐ねつ〔ジヤウ‐〕【情熱】

ある物事に向かって気持ちが燃え立つこと。また、その気持ち。熱情。「研究に情熱を燃やす」「サッカーに情熱を傾ける」「情熱家」

(出典:デジタル大辞泉小学館)) 

 

 ということのようです。

気持ち、心の熱量、エネルギーが、まるで火のように燃立つ感じ。

情熱家、と書くとまるで熱血のようにも思えます。

人でいうなら松岡修造さんみたいな。

音楽だったら「情熱大陸」一択ですね。

 

「情熱を注ぎ込む」ことへの自己イメージと感情

私は「情熱」に対して、注ぎ込む熱量的なイメージを持つと同時に、その行為にさながら職人のような繊細さと集中力を必要とするもののように捉えているようです。

いや、職人のように極限の集中と繊細さを傾け徹底できる熱量こそ情熱だと思っているようだと、このキーワードについて思いを馳せながら自分を観察していました。

 

これが、ひょっとしたら、「情熱を傾けること」に対する憧れめいた理由でもあり、同時に私にとって「情熱を傾けること」に対するハードルをガン上げしているのかもしれないな、と感じます。

 

私は昔から「何かに情熱を傾ける」という行為に対して、どこか一歩引いてしまうような、斜に構えるような、傾いた姿勢でいたような気がします。

一方で、「何かに情熱を傾けている人」に対して、ものすごく憧れと同時に嫉妬や劣等感を持っている。

それは私自身が「何かに情熱を傾けたい」と、没頭したいと思っている何よりの証拠だと思います。

嫉妬や劣等感を感じる、ということは、裏を返せば「私もそうありたい」であったり、「私にも本当だったらできるはずなのに」と思っているという証左なのだから。

 

しかし、肝心の「情熱を傾ける対象」が何か、ということに関して途方に暮れる。

 

私、一体何に情熱を傾けたいのだろう?

何なら極限の集中に熱量を注ぎこめるだろう?

 

おそらく、はたとして振り返った時に注いでいたもの

多分、情熱を傾け注ぎ込む先、というのは探してもなかなかわからない、というか、自覚できないものなのではないかなと思う。

先に集中して、没頭して、自分を注ぎ込んでいて…そしてはっと気がついて振り返った時、多分「情熱を傾け注ぎ込んでいた自分」と「自分が情熱を傾け注ぎ込む対象」に気がついて、自覚するのではないか。

 

その状態になっていることが先なのでしょう、きっと。

 

そうなっている時、情熱を傾け注ぎ込む対象は自分のそばにある。

なら私は一つ一つの行為に繊細の注意を払い、集中力を保って色々試していくほかない。

もう一つ言うなら、「情熱を傾け注ぐこと」に対するイメージのハードルを、もう少し下げた方がいい。

これまでの人生で「情熱を傾けてきたこと」を振り返ると途方に暮れてしまうくらい思い浮かばない上その空白にまた劣等感を覚えてきたものだけれど、これまでに大なり小なり没頭や熱中したことがあって、でもそのイメージのために「情熱を注いだ」という自覚がないものもきっといっぱい転がっている。

それらを振り返ることは、自分の適正、情熱を傾ける先を絞るヒントになるはず。

そうして絞りながら、出会ったものごとに集中し、より集中できるものだけを残してさらに没頭する。

 

多分、そうしているうちにきっと私も「情熱を傾け注ぐ人」になれるだろう。

そしてあなたも。

 

 

いつもご覧くださいましてありがとうございます。

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